流情恋歌  − 千年の孤悲 −

          


この時代、政の実権が貴族から武士に取って代わって久しく、朝廷は有名無実
の存在と成り果てていた。
武士はそれぞれの武力のみで争い、覇権を争うときに必ず担ぎ出された帝や、
その血筋はもう価値を失い、戦の大義名分すら朝廷から離れていた。
貴族社会で跋扈していた鬼やあやかしの類いはいつしか人の前から消えて、誰
も語らなくなっていた。
だが消えたから、語られないからと言って、なにもかもが滅んだわけではなか
った。

その日。
早春の清々しい蒼穹が広がるかと思われた都の空は、突如として現れた黒雲に
埋め尽くされた。
西から東へと流れる白い雲とは違い、東の山の彼方からもくもくと湧き出るさ
まさえ生々しい黒雲は、白い雲はもとより払暁の清々しさも、昇ったはずの朝
陽の一条さえ透すことなく、みな呑み込んでいった。
屋根に登れば手が届きそうなほど低く垂れ込めた黒雲に、人は為すすべもなく
不安と恐怖に震えるばかりだった。
その暗雲の中を、不穏な轟きとともに稲妻が走る。
東から徐々に近付いてきたそれが、御所の真上に到達した瞬間。
天の怒りを思わせる凄まじい轟音と閃光が、御所の正殿に襲いかかった。
稲妻は屋根を破壊して玉座を吹き飛ばし、床板さえも貫いた。
御所の外側では人々が地に伏し、両手を揉み合わせて救いを祈る。
内側の貴人たちはただ脅えて震える。駆けつけた警護の役人さえその場に立ち
竦んだ。
音と光の衝撃が去ったとき、彼らには次なる衝撃が待っていた。
正殿の庭に、ひとりの男が立っている。
偉丈夫という言葉がぴたりと填まる体躯。
その長身の、腰まで達する鋼の色と輝きを放つ総髪。
辺りを鋭く睥睨する黄金色の双眸。
纏った狩衣の翡翠色は、薄闇の中でも鮮やかに映えて。
そして、耳ではなく頭蓋に響くその声は人々を震え上がらせた。
『約束の千年は果たされた。われの腕を返してもらおう』
 
衝撃が薄れ、ようよう気が付いたと言わんばかりに、男に向けて矢が飛んだ。
だがそれらはみな、男のひと睨みで地面に落ちる。
男は立っているだけで、その場を支配していた。
ある者の足は震え、またある者は腰を抜かして座り込んだ。
刀を振りかざすどころか、男の圧倒的な畏怖に、逆らえる者はいなかった。
その黄金色の眼差しを浴びたなら、石と変わるか、はたまた塵となって消えて
しまうか。そんな威圧感を男は撒き散らしていた。
脅えた視線の中、翡翠色の袂が踊るようにふわりと翻った。
すると。
大穴の開いた正殿の床下から石棺のようなものが出てきた。
見るからに重そうなそれは、しかし重さを感じさせぬ動きで宙をゆく。
男の前に音もなく降りたそれに、
『大仰な…』
苦笑を滲ませた男の掌が触れると、石はたちまち砂となり崩れていった。
近くにいた者らが息を呑み、じわりと後退る。
石棺の中には木の箱があった。
いまにも朽ち果てそうなそれは、男が力を使うまでもなく、内側から膨らんだ
と見るや、一気に弾け飛んだ。
悲鳴があちこちで上がる。四つに這って逃げ出す者もいた。 
男ですら瞠目していた。
現れたのは信じられぬほど長い、黒髪だった。
枷を外されたそれは、黒い大蛇のようにうねりながら庭の四方へと広がった。
『まさか…』
男が茫然と呻き、その顎がぎりりと鳴る。
長い黒髪の中心にいたのは、まだ若いと思しき女の木乃伊(ミイラ)だった。

男は木乃伊の前で、しばし愕然と立ち尽くした。
『なぜここに…そなたがいる…?』
信じられないものを見るように呟き、右手を伸ばした。
『都で幸せに暮らしていると聞いた。だから…われは…』
頬は干涸びて骨に張り付き、枯れ木のような色をしていた。
どこもかしこも渇ききった姿でありながら、黒髪だけが艶やかに輝いている。
それは千年前、再会を約しながら戻らなかった娘の、変わり果てた姿だった。
男の指先が触れようとした、そのとき。
木乃伊の目蓋がゆっくりと持ち上がった。
ひび割れを起こした皮膚が、ぱらぱらと落ちる。
白く濁ってはいたが、間違いなく光を宿した瞳がそこにあった。
『…そなた…まさか……』
呟く男の唇が、微かに震えた。
ああ…と、か細い吐息が木乃伊の唇から零れ、みるみる盛り上がった涙が頬を
転がり落ちた。
娘は、木乃伊となっても生きていた。



         一

遥か昔。
男は鬼と呼ばれていた。
人は同胞ではなく、利すれば寄り、害あるとみれば討ちに来るだけの存在でし
かなく、時として数を頼りとするそれは、男には煩わしいだけのものだった。
ゆえに棲み処の山に結界を張り、身辺から人の気配を排除した。
それからの日々はただ穏やかに過ぎて。
孤独や寂寥など、男には無縁のものだった。
あの日までは。

人が結界を越えると、産毛の先に触られるような感触を覚える。
秋も終わりのある日、男は久しぶりにそれを感じた。
弱く小さなその感触で子供と知った男は、午睡の続きを決め込んだ。
だが、その気になれば隣の山の枯れ葉一枚落ちる音さえ聞き取る男の耳が、
子供の泣き声を拾い上げた。
常ならば心を動かされるまでもない。
しかし、なぜかそのときは父親を呼ばわる声に哀憫が勝った。
人と関わればどうなるか、身を以って知る男が迷ったのは瞬きひとつの刻。
穏やか過ぎる日々に、少しばかり厭きていた。
男が立ち上がったとき、もう泣き声の主の前に立っていた。
七つ八つほどの子供は擦り傷だらけの両手で、同じように擦り傷や泥で汚れた
顔を覆って泣きじゃくっていた。
「どうした、童。父者とはぐれたか?」 
声を掛けると、子供は驚いて肩を跳ね上げた。
しかしすぐに熊が熊が…と急くように言いながら顔を上げたが、その視線は
男の胸の辺りで止まった。
「おとうが熊に…」
それからひくりと喉を鳴らし、訝しみながらもさらに顔を上げた。
子供が思ったよりも上に、男の顔はあった。
「熊に襲われたか?」
子供は男の顔を見つめたまま、半ば無意識のように顎を引いた。
その顔に浮んでいるのは驚愕と恐怖、そして幾許かの安堵。
人ではないからこそ救えるものもある。
子供でも本能でわかるのだろう。
男は苦笑した。
そうして父親の気配を探れば、それはすぐにわかった。
それほど猶予がないことも。
抱き上げると子供は驚いたように眸を瞠ったが、すぐにじっと男の顔を見つめ
た。
怯えながらも眸を覗き込むそれは、幼い好奇心ゆえと知れる。
男は口の端に笑みを浮かべ、泣き出さないだけ良しとした。
「しっかりと掴まっているのだぞ」
言うが早いか、子供の小さな腕で首に縋りつかれ、男は眸を瞠った。
いつもそうして父親にしがみ付いていたのか。
無邪気な信頼。
人というよりただ小さく頼りなく、そして温かい生きもの。
男はひっそりと微笑み、子供の父親の許へ跳んだ。


「おとう!」
子供は父親の姿を見るなり、男の腕から飛び降りて駈けていった。
父親は地面に降り積もった枯葉を、その血で濡らしていた。
父親の生死の前に男の異形など気にならないのか、子供は縋る眼差しを男に向
けた。
「われになにを望む?」
わかっていながら、男は訊いた。
「おとうを助けて」
答えは即座に返る。
「人はわれを鬼と呼ぶ。鬼に頼み事をするのは怖くないか?」
男の口調に拒否を感じ取ったか、子供がくしゃりと顔を歪めた。
怖くないと言いたげに頭を振りたくる子供に、男は目許を和ませる。
「すまぬ。いまのはわれが悪かった」
その頭をひと撫でして、男は父親の傍らに屈み込んだ。
頬と胸、それと背中を斜めに。
それらの傷に手を当てるだけで、新しい皮膚が傷を塞ぎ、血を止めた。
悲惨な傷が瞬く間に治っていく奇跡に、子供は眸を瞠りながらも滲むような
喜色を泛べた。
それを横目に男は指先を咬んで血を一滴、失った血を補うために父親の口に含
ませた。
「これで父者は大丈夫だ」
男の言葉に、子供はこっくりと泣き笑いの顔で頷いた。
「今度はそなたの番だな」
幾度も転んだような汚れた顔や手を袂で拭い、細かい傷を指先で撫でて治して
やると、存外愛らしい顔立ちが現れる。
「足も挫いたな?」
触って確かめるまでもなく、腫れているのがわかる足首を掌で包んだ。
「母者が心配しているだろうな…」
男が何気なく言った言葉に子供はぴくりと反応した。
頭を振って項垂れる。
「この夏に死んだ…」
「そうか…。兄弟はいるのか?」
ふたたび頭が振られる。
子供はぽつりぽつりと話し始めた。
ふた親は流れ者で、この辺りに辿り着いたときに身重だった母親が産気づき、
子供を産んだあとは床に臥せがちになったため、村に住み着いたという。
しかし居ついて十年に満たないせいか、それともいずれは離れる心積もりが
あるのか、村に溶け込んでいるふうではないのが子供の言葉の端々に窺えた。
「人を食べるのは…ほんとう?」
ひと通りを話し終えた子供は、好奇心を抑えられなかったようだ。
しかしながら、あまりにも直截な訊き方に、男は苦笑するほかない。
「食わぬよ。食おうとも思わぬな」
「それなら…また来てもいい?」
子供の抱く孤独感が滲み出たような言葉に、男は絶句した。
哀れさが首肯を誘う。
男が独りでいた時間も長かった。
「来てはならぬ。そして、われのことを誰にも話してはならぬ」
だが男は切り捨てる。
「われと繋がりを持てば、人との繋がりを失うやもしれぬぞ」
人との繋がりと、その裡にある情を。
「だから、約束できるな?」
否とは言わせぬ口調に子供は頬を強張らせ、ぎこちなく頷いた。
「さて。父者が目を覚まさぬうちに村の近くまで送ろうか」
別れのときを告げると、子供はいまにも泣きそうになった。
それには気付かぬふりで、男は片腕で子供を抱き上げる。
ふたたび子供の腕が、男の首に絡んだ。
子供は目蓋に焼き付けるかのように、ひたむきに男の眸を見つめていた。
「われの眸がよほど気に入ったようだな」
子供のつぶらな黒瞳に、苦笑する男の顔が映っている。
「よく晴れた晩の、お月さまみたい…」
男の黄金の双眸を、子供はそう言った。
怯えることも気味悪がることもなく、ただ見たままを口にした子供の言葉に、
男の笑みは深まった。
父親をもう片方の腕で抱き起こし、
「ゆくぞ」
男の声に、子供はその力の限りで男にしがみついた。
もう二度と味わえぬだろう、その感覚。
男はそれを、しばし楽しんだ。





         二

『生きているのか…そなた…』
娘の頬に触れようとした男の指は、寸前で止まった。
瞼を開けただけでこぼれ落ちた皮膚は、触れればどうなるか。
その男の指先を、流れる涙が掠めていく。
渇ききった身体のどこに源があるのか。
涙は後から後から湧き出てくる。
干乾びた唇から、また微かな吐息がこぼれ落ちた。
『…ああ……』
悲嘆の滲む娘の声は男と同じように、頭蓋の内に直接響くものだった。
『なぜそなたがここにいる。なぜだ?』
男の剣呑なようすに呼応するように、黒雲の中で稲妻が光る。
『そなたは都で…慕う相手と添うたと、そなたの父者は言ったぞ……っ!』
『…お許しください』
『なぜそなたがそこにいるっ! われを謀ったかっ!』
たちまち数本の稲妻が落ちた。
黒雲に遮られて薄暗かったものが真昼のように明るくなって、娘のようすが
はっきりと映し出された。
『お許しください。どうか…どうか…』
詫び言を繰り返す娘は、黒ずんで骨と皮ばかりになった両手で、かつては美し
い錦だったろう布をしっかりと胸に抱いていた。
『それは…』
『お許しください。どうか、お許しください…』
同じ言葉ばかりを、木乃伊は繰り返す。
木乃伊の『声』は、二人を遠巻きに見ている殿中の者たちにも届いていたが、
その彼らに男への恐怖を忘れさせるほど、その声は哀切な響きを伴っていた。
生きているとはいえ、木乃伊と成り果て千年。
決して人では有りえないその越し方に、娘の心が壊れていても仕方のないことだ
った。



苦しさに張り裂けそうな胸を抱え、娘は山の奥深くを彷徨っていた。
若芽が膨らみはじめた枝の向うには、おぼろな月が浮んでいる。
吐く息は白く夜気に滲んだ。
履物をなくした足は傷だらけで、娘は寒さのせいばかりでなく、ぶるりと肩を
震わせた。
入ってはならぬ掟の、鬼の山。
けれど、娘は引き返そうとは思わなかった。
その鬼に会うことこそが、娘の願いだった。

娘は鬼に会ったことがある。
床に伏せがちだった母を夏に亡くし、募る寂しさに父から片時も離れずに
過ごした八つの秋。
子供の足にはきつい山へ、仕掛けた罠を見てまわる父について行った。
「良いか。この沢のあちらへ行ってはいけないよ」
沢に出たとき、父親は真剣な声で娘に言い聞かせた。
「あちらの山は鬼の棲む山だ。沢の向こうへ石を投げてもいけない。
鬼が気付くから」
食べられてしまうよ。そう父親は言った。
熊に襲われたのは、その後。
父親は逃げろと叫んだが、娘の足は恐怖で固まり動かなかった。
再度叫ばれ、はじめて無我夢中で駆け出した。
沢に沿って下流へと、父親が指差した方へ走った…つもりだった。
しかし恐怖と不安にそれを忘れ、気付いたときには山の中を彷徨っていた。
走っては転び、転んでは走り。
身体中が傷だらけになっていた。どこで捻ったか、足首がひどく痛かった。
息が切れて立ち止まったとき、恐ろしいほど山は静まりかえっていた。
樹上で羽ばたく羽音にびくりと震え、下草ががさりと鳴っては息を止めた。
心細さに、ついに娘は泣き出した。
父親を呼びながら、娘は手放しで泣きじゃくった。
すると突然、頭の上から声が降ってきた。
「どうした、童。父者とはぐれたか?」
娘が生涯忘れることのない声は、穏やかにそう言った。


疲れきった脚を引きずりながら、娘は思いを巡らせる。
あれは鬼だ。たしかに鬼だった。
けれど、優しい鬼だったのだ。
娘のことを案じて、繋がりを持たないと言った声はいまも娘の耳に残る。
それなのに…娘は約束を守れなかった。
せめて恩を返さねば。
早く逃げてと伝えるために、娘は山を彷徨っていた。
夜が明ければこの山に大勢の人間がやってくる。
鬼を殺すために。
娘に「行け」と言い、見張りの目を引き付けて逃がしてくれた父親がどうなっ
たか、不安は残る。
しかしいまは人として、恩ある男を逃がすほうが大切だった。
だが、どこへ行けば会えるのか、どこにあの男がいるのかなど娘にわかるはず
もなかった。耳目を凝らしたところで、なんの気配も感じられなかった。
落胆が娘の肩に落ちる。
山犬の遠吠えが遠く近くに聞こえた。
そのとき、気が急くばかりの娘には、山に棲む鬼ならば、山犬を従えていても
不思議ではないように思えた。
気付けば、娘は声を張り上げていた。
「会わせてください! あの方に!」
すると、娘が聞いたこともない不思議な響きを持つ声が、脳裡に響いた。
『諾』
訝しむ間もなく、たちまち夥しい数の山犬が、激しく吼えながら娘に向かって
くる。
雲が切れて蒼い月明かりが辺りに広がると、獰猛な山犬がはっきりと娘の眸に
映った。
けたたましく吼える山犬に追われるまま、娘は逃げた。
しかし、長く山を彷徨っていた娘に、力はそれほど残っていなかった。
山犬の鳴き声に耳鳴りが重なる。
「…逃げて…ください」
苦しい息の下から、それだけを娘は呟いた。
最後の願いはそれだけだった。
山犬の前足が背に掛かり、思わずたたらを踏んだとき、大地は娘の足の下から
消えていた。
とっさに手を伸ばして木の枝を掴んだが、細いそれはいとも容易く折れた。
耳鳴りだと思っていたものが滝の生み出す轟音だったと気付いたときは、娘の
身体は崖から落ちていた。
逃げて…。
もう声にはならない願いを心で呟きながら、娘は落ちていった。
月明かりに照らされた、滝の雄大さに眸を奪われながら。

滝の大きさに見合った淵は深く、娘の身体はどこまでも沈んでいく。
疲れ果てた娘は、浮かび上がろうとはしなかった。
心残りは、会って伝えられなかったこと。
しかしきっとあの不思議な力で聞きとってくれたと、信じるほかなかった。
ぼんやりと見上げた先には、水面越しに差し込む月の光。
えも言われぬ美しさに、娘は生も死も忘れた。
あの黄金色の瞳が思い出される。
思わず洩らした吐息が、ごぼりと泡になって立ち上っていくのさえ美しく。
しかし、最後のそれを吐き出した刹那、娘は否応なく現実を知らされる。
呼吸のできない苦しさに、娘は自分の喉を掻き毟った。
なにもかもが冷たい世界で、目蓋だけが熱い。
そのとき、突然ごぼりごぼりと巨大な泡が水底の方から浮かび上がってきた。
その勢いで、娘の身体も瞬く間に水面へと運ばれた。
水から出ても、なおも娘の身体は上へと上がっていく。
なぜと思う暇もなく、娘は激しい咳に襲われた。
咳き込みながら、娘は既視感を覚えた。
視界を覆う碧色の衣に、鋼色の髪がきれいな流れを作っている。
顔を上げると、月の光を映したような黄金色の双眸があった。
男はその逞しい腕で娘を抱き上げ、ことも無げに水面の上に立っていた。
安堵にくしゃりと娘の顔は歪み、はじめて会ったときのように泣きじゃくった。
「どうした? また父者とはぐれたか?」
ひと際大きくなった娘の嗚咽は、夜の静寂にもの悲しく響いていった。


「逃げてください。どうかこの山からお逃げください」
滝壺のあちこちにある大岩のひとつに降ろされるなり、娘はそう男に訴えた。
「なぜ、われが逃げねばならぬ?」
「朝になったらみながやってきます。貴方さまを……討つために…」
たちまち男の眸が剣呑な光を宿したのに、娘は肩を震わせた。
「われを討つ…と?」
「はい。この山は鬼の山だと言われておりました。だから入ってはいけないと。
このたび都移りがあるとか。西の方に新しい都を造るので、そこへ行く途中にあ
るわたし達の村に宿を求めて、都の役人が村に来るようになりました。
何度か来るうちに村長がこの山のことを話して……」
そこまで話して顔を伏せた娘は、胸元で両手を硬く握り合わせる。
その手には崖から落ちるときに折ってしまった枝が、まだあった。
「父のせいです。父とわたしのせいなのです」
枝がぶるぶると震えはじめる。
娘は俯いたまま、言葉を続けた。
「さっそく退治をと言った役人に、父は貴方さまのことを話しました。
退治しなければならないような鬼ではないと。わたしもあのときのことを話した
のですが、却って貴方さまのことをみなに教えてしまうことになって…。
言わなければ、ただの噂だけで済んだものを……っ!」
娘は泣きながら、謝罪の言葉を何度も繰り返した。
しかし、男はなにも言わない。
二人の間の空気が、きりきりと絞り上げられるような緊張感を孕んでいった。
いまこの瞬間に息の根を止められても不思議ではないほどの、男の怒りが娘に伝
わってきた。
慄く唇をなんとか開いて娘は、それでも男の袂に縋りつく。
「逃げてください。お願いです…どうかこの山から……」
「命を助けてやったそなたらが、われに徒なす切っ掛けをつくったというのか」
娘の言葉を遮ったそれは、落ちた滝壺の水より娘の心を冷たく貫く声音だった。
俯いたまま肩を震わせて、「はい」と娘は答えた。
「わたしは約束を守れませんでした…」
娘は顔を上げ、黄金色の眸を見上げた。
「償いはなんでもします。…だからどうか逃げてください…」
重ねて訴える娘の顎を、大きな手が掬い上げる。
「その償いとやらにそなたの命を、と言ってもか?」
「はい」
眼差しひとつ揺らがせることもなく、娘は覚悟を決めた眸で男を見上げた。
すると不意に、男の目許が和らいだ。
いつか見た記憶のあるそれに、先ほどとは違う慄きで娘の唇が震える。
顎に掛かっていた手が、頬へと流れた。
「傷だらけになってここまで来た。それだけで…もうよい」
やわらかな月光にも似た眼差しを注がれて、娘は試されたことを知った。
涙が娘の頬を濡らす。
そうして、やさしい眸を向けられた娘は、男に殺されることより嫌われること
のほうがなにより怖かったのだと気付いた。
恩人と慕っていた娘の想いが、恋に変わった瞬間だった。

はじめての恋を自覚して、うろたえ俯く娘は、膝に重ねた手の中に折れた梅の枝が
あったことにようやく気が付いた。
里では満開の梅だが、山の上では蕾もまだ固い。
「…貴方さまの…山を、損なってしまいました」
娘はその枝をそっと差し出した。
「山はわれのものではない。われとて棲まわせてもらっている身だ」
男は娘の手から枝を受け取ろうとしたが、娘の指は強張ったまま開かなかった。
いっそう狼狽する娘に、男は笑みを浮かべてその指を解いてやった。
そうして枝を取り上げ、折れたところを右の掌に包み込んだ。
すると、いまだ硬いはずの蕾がゆっくりと膨らみ、綻んでいく。
白い梅の花だった。
男の穏やかな笑みとともに、枝が娘の手許に戻ってくる。
凛とした花びらは、まるで男の手で咲いたことを誇っているかのようだった。
顔を近づけると、それは娘が知るどの梅よりも強い香りを放っていた。
男はそのさまを静かに微笑んで見守っていたが、手を伸ばして娘の髪をひと房
すくった。
突然のことに娘が驚くと、男は口許に深い笑みを刻んだ。
「まだ濡れているのかと思った」
水面の上から岩へ移る間に、その不思議な力で髪も衣も乾いている。
けれど艶やかな黒髪は、月の光を映して濡れているようだった。
「きれいなものだな…」
たちまち頬を染めた娘は、ひっそりと小さく微笑んだ。
「やっと笑った」
男の手が髪から頬へと移ってくる。
「そなたは、会うたびに泣いている」
笑った顔が見たかったと言われて、娘は恥じらって瞼を伏せた。
男の言葉に、はじめて会ったときのことを思い出し、そうして父親のことを思い
出した。
あのとき父親は熊に襲われていた。いまは村人や役人に、娘を山へ逃がした咎で
捕まっているかもしれなかった。
「どうか、早くお逃げください。夜が明ければ討手が来ます」
恋を知ったところで、どうにもならないことはある。
せめて生きていて欲しいと、願うことしか娘にはできなかった。
「案ずることはない。この山から去ろうと思えば一瞬ですむ」
娘は、はっと息を呑み、たしかにそうだったと短慮を恥じて俯いた。
同時に、ここにいる理由もなくなってしまった。
恋心を封印し、それでは、と娘は辞去の言葉を告げる。
「なにをそんなに急ぐ?」
「おとうがまだ村に…」
父親はその身を盾として、娘を逃がした。
村人や役人に囲まれ、父親が逃げ切れたとは娘には思い難かった。
男はそれを聞いてひとつ頷くと、遠くを見据える眸をした。
「やれ気の短いことだ。朝まで待てぬと見える。みな麓に集まってこれから
登ってくるつもりのようだ。父者は…無事だ」
「それならば、どうかいまのうちにお行きください」
そう言った娘の顔に、事を為し終えた安堵感が滲む。
「案ずるなと言うたであろう。われが棲み処を捨てるほどのこともない。
われに近付こうなどと、二度と思わぬようにするだけだ」
男の言葉に、娘の顔から血の気が引いた。
「それは……」
村人を傷つけるのかとも訊けず、言いよどむ娘に男は笑った。
「そなたが怯えるようなことはせぬ」
立ち上がった男に倣い、娘が膝を伸ばしかけたとき、男の手が差し出された。
半ば無意識にその手を掴もうとした娘の手が、寸前で止まる。
一瞬の恥じらい。
引こうとした娘の手は、それよりも早く男の大きな手に包まれた。
強い力に立たされながら、俯く娘の項が朱に染まる。
男は黙したまま、袂の内に娘を抱き込んだ。
いっそう身を硬くする娘に、男はひと言だけ。
「ゆくぞ」
そう言った口許は楽しげに綻んでいた。



        三 


夥しい松明の群れの合間から天に向かって突き上げられる刃が、鈍く光る。
その正面に、男は現れた。
娘を伴って出現した男に一瞬は怯んだものの、人ではない証しを見せられて、
彼らは余計に奮い立った。
いっせいに走り寄る人、人、人。
松明が投げ捨てられ、刃が振り上げられる。
娘が男の腕から飛び出した。
「やめてっ!」
悲痛な叫びとともに、娘は両手を広げて男を庇う。
だが、たかが娘ひとり。
勢い付いた多勢の前では、道の小石ほどの邪魔にもならなかった。
刃が娘を襲う。
風の唸りとそれに続く鈍い音がした次の瞬間、血飛沫が飛んで娘の顔を真っ赤
に染めた。
間髪入れずに次の刃が振り下ろされた、そのとき。
娘と殴られた痕も痛々しい父親を残して、すべての者は後方へ吹き飛ばされた。
黄金色の双眸が炯々と耀っていた。
研ぎ澄まされた鋼色の髪は風に煽られ、その一本一本が生きているように舞う。
月が隠れても、松明が消えても、男の姿を見失うものはいなかった。
男の全身からは、細い金糸のような光が立ち上っていた。
袂ごと切り落とされた右腕から血を滴らせながら。
恐怖が畏怖に変わる。
真っ先に正気に戻ったのは娘だった。
男に飛びつき、その右腕に袂の切れ端を巻き付け強く縛って血を止め、そうして
震える手で落ちた男の腕を拾い上げた。
娘の瞳から涙が滂沱と流れ、その唇からは苦鳴が迸った。
「なんてことを…なんてことをっ!」
「案ずるな。泣くにはおよばぬ」
右半身を血で染めながら、男は微笑んでさえみせた。
だが、その視線を娘から外した途端、それは鋭く不穏な光を放つ。
『われの腕はこの娘に預ける。どこへなりと持っていくがいい』
それまで音として聞こえていた男の声が、突然脳裡に響く思念となった。
『その代わり、この父娘に危害を加えることは許さぬ。われの腕にこの娘以外の
者が触れることも許さぬ』
男の全身が輪郭もあやふやに見えるほど、金色の輝きが強くなった。
『千年だ。千年経ったら返してもらおう』
金色の光に包まれてもなおいっそう強く輝く黄金色の双眸に見据えられて、応え
られる者はいなかった。 
応えられたのはただひとり、娘だけだった。
「貴方さまが腕を失う必要など、どこにもありません! いますぐお返しいたし
ます!」
袂に包んだ腕を娘は差し出したが、男はすうっと一歩退いた。
『たかが千年。腕の一本、なくとも不自由はない。ただ、そなたにはまた約束し
てもらいたいことがある』
「………」
『まれにで良いから顔を見せに来てくれぬか。泣き顔ばかり見せられて、どうに
も気掛かりでならぬ。だから…来るなと言ったり、来いと言ったり気まぐれで
すまぬが、笑った顔を見せに来て欲しい』
「山に入って良いのですか?」
『良い。そなたなら…』
娘はもう答えられなかった。溢れた涙が顎からぽたぽたと滴り落ちて、声を出す
こともままならず。
だから娘は唇をしっかりと引き締めて、こくりとひとつ頷いた。
『約束したぞ』
満足そうに微笑んだ男の気配が娘に伝わり、娘はいま一度頷いた。
それが合図のように男を包む光がいっそう輝いた。
それは徐々に大きくなっていったかと思うと、ぐんと縦に伸び、終いには光の帯
となって空に吸い込まれていった。
男の血に塗れて泣き崩れる娘と、畏れおののき地面に伏す人々。
彼らは夜明けを迎えても、その場を動くことはできなかった。



許せ、と男は言った。
『あのとき…そなたがわれに逢いに来なくても、そなたが幸せなら…それで良い
のだと思うことにした。父者がそれを伝えに来たのは初雪の頃。半年も経てばそ
ういう相手に巡り会っても不思議ではない。
それがよもや埋められていようとは…。許せ、そなたやそなたの父者の苦しみを
知ろうともせず、そなたを捜そうともしなかった、われを許せ』
千年経って、男はようやく過ちに気付いた。
土中に埋められて、千年生き続けた娘。
生きながら埋められる娘を見届けた父親は、なにを思って偽りを男に告げたのか。
もしかしたら、約束を破られたと知った男が、怒りに任せ娘を責めに行くことを
願ったのかもしれない。
それとも、あのとき男の心に芽生えていた小さなものを見抜き、娘を奪いに行く
ことを願ったのか。たとえ娘がほかの男と幸せを掴んでいると思っても。
どちらにしても、男が動けば娘が救われたのは事実だった。
『われは…父者に試されたのやもしれぬ。我が子を託す相手として…』
だが、男はそれに応えられなかった。
木乃伊を見つけたときの比ではない衝撃が男を襲った。
男は天に向かって、吼えた。
絶望と悲しみに満ちたそれは、都中に響き渡るほどの大きさだった。
雷鳴が重なり、数え切れぬ稲妻が大地に突き刺さる。
男にも向かってきたが、まるで稲妻のほうが避けるようにわずかに逸れた。
敷かれた玉砂利が弾けて男の身体に当たる。が、ひとつとしてすぐ傍の、娘の
木乃伊には当たらなかった。

稲妻が止み、黒雲の中で雷鳴が不気味に轟くだけになったとき、天を仰ぐ男の
こめかみを涙が一筋流れていった。
『許せ…』
力なく呟きながら男は片膝を着いて、ためらいがちに、だが木乃伊の皮膚が落ち
ても怯むことなく、その頬に手を添えた。
すると、男が手を触れた場所から木乃伊の輪郭に重なって、千年前の娘の姿が幻
となって現れた。
『…そなた……』
ぽろぽろと、現と幻の涙が重なって流れていく。
『わたしは…禍でしかありませんでした…』
泣きながら幻の娘は口を開いた。
『約束を守れず、あまつさえ御身を損なわせ、いままた貴方さまをそれほどまで
に苦しめて…』
木乃伊が繰り返していた言葉の意味を、男はようやく理解した。
『約束を破ったことなら、もう良いと言ったはずだ。そなたがどんな思いでわれ
の許へ来たか、知っている。腕のこととて、われが自らしたこと。そなたが気に
病むことではない』
千年前、男を逃がすために山を彷徨い、滝壷に落ちた娘が願ったことは、男の心
に届いていた。
そのときの一途さもすべて。
姿形が変わろうと、変わらずそこにある想い。
『……最後の約束も守れませんでした』
その後悔の滲む声音に、男は柔らかな動作で頭を横に振った。
『もう良い…』
『守りたかった。なんとしても守りたかった…。今度こそ…』
でも…と娘は続けた。
『守れないこともわかっていたのです』
娘がまっすぐに男を見つめて言うと、男の指に力が入ったか、木乃伊の頬から
またぱらぱらと皮膚が落ちた。
『…ただ会いたいと、思うことすらそなたには重荷だったか』
『いいえ』
にっこりと笑うその頬を、幻の涙がころころと転がり落ちていく。
『わたしもお逢いしたかった…。仰ってくださったことに応えたかった。
……けれど、わたしは…わたしの罪を見る勇気がありませんでした。
わたしのせいで腕を失くされた貴方さまのお姿は、わたしの罪そのもの。
どうして笑って逢いになど行けましょう。この腕を貴方さまにお返ししないかぎ
り、貴方さまにお逢いするのは怖かったのです。次に山へ行くときは腕をお返し
にあがるとき、そう決めておりました』
だが、取り巻く状況がそれを許さなかった。
初めは客分の扱いで大事にされていた娘だが、隙を見ては逃げようとしたため、
それはしだいに囚われ人のそれになっていった。
父親の命を引き換えにと脅されれば、娘はもう諦めるしかなかった。
先に山へ向かったとき、父親を見捨てたようなものだったのだ。
二度はできなかった。
そうして、腕の置き処は玉座の下、土の中と決まった。
娘以外が触れられぬそれは、あまりに危険だった。
娘が生きているうちはまだしも、それ以後はどうなるか。
それを見越しての決定だった。
娘は、それなら自分も一緒に、と役人に言った。
人には触れぬものでも、地中の虫やもぐらはどうなのか知れない。
男の腕がそんなものに食い散らかされるくらいなら、自分が守ろうと思った。
おのれの身で守ろうと。
『あわよくば…とも思いました。土を掘れば山へ行けると。…ですが、かれらも
それを案じたのでしょう。石の箱が用意されていました…』
男はどこかが痛むような顔で、娘の話を聞いていた。
『禍はわれのほうだな。そなたにこれほどまでに酷な運命を背負わせたはわれの
せいだ…』
『いいえ…どうかそのようには思われませんよう…。約束を果たせなかった悔い
はあれども、この千年…不幸ではありませんでしたから』
娘の言葉に、男は瞠目した。
『不幸ではなかった、と?』
『はい。おとうが貴方さまに伝えた言葉は嘘ではありません。わたしがそう伝え
てほしいと頼んだのです』
『慕う相手と添うたという……?』
『はい』
幻の娘は、このうえなく幸せそうに笑う。
『千年も添わせていただきました』
その笑顔をまぶしそうに見た男の視線が、木乃伊の娘の胸元に落ちた。
どこかで咲いた梅の香りが、二人の間をゆるい風とともに吹き抜ける。
庭をあらかた埋め尽くすほどに伸びた黒髪も風にゆれた。
昔、男が誉めた黒髪だけが艶やかに伸びている。
木乃伊となった娘の身体に閉じ込められた恋心は、千年経ってもまだ死んではい
なかった。



        四


『……どうぞお取りください』
幻の腕が胸元の錦を包むように指し示す。
男は束の間、眸を眇めて娘を見つめた。そして木乃伊となった娘の身体をわずか
でも損なわぬように、ゆっくりとその錦を取り上げた。
包みの中には娘と同じように、枯れ木のように干乾びた腕があった。
それをそっと右の袂に差し入れて、男はきつく眸を閉じる。
次の瞬間、男は立ち上がりながらばさりと袂を振り、右手を眼前に上げた。
遠巻きにことの成り行きを見ていた者たちから、どよめきが起こる。
枯れ木のようだった腕は張りのある肌と筋肉とを取り戻し、偉丈夫の男にふさわ
しい腕になっていた。
だが、対照的に娘の艶やかな髪は、瞬く間に毛先から白くなっていった。
それを追うように、白くなった髪はぼろぼろと崩れていく。
男がふたたび娘の前に跪き、いまはもうなにも抱えていない娘の手に、おのが手
を重ねた。
『そなたが守ってくれたおかげで、爪一枚欠けてはおらぬ。礼を言う』
男の言葉に嬉しそうに頷く幻の娘は、少しずつおぼろになっていく。
『そなたの身はもう…もたぬ…。そなたは一度還らねばならぬ』
『満願叶いましたいま、もう想い残すことはございません』
思念に乗せずとも、逢えて嬉しいとその微笑みで語る娘を、男はなにか思案する
ようにじっと見つめた、そののちに。
『そういえば、そなたの名も聞いていなかった…』
男は突然そう訊いた。
娘の幻は小首を傾げる。
『…忘れてしまいました』
しばらくしてから哀しげな笑みを見せながら、そう言った。
千年のあいだ誰にも呼ばれることなく、狭く暗い石の中で男のことだけを考えて
いたから忘れたと、娘は言った。
男は『そうか』とひと言呟いただけで、また娘をまっすぐに見つめた。
『人にはありえぬ千年の時を過ごしたそなたの魂は、しばしの眠りにつく。だが
記憶のすべてが浄化され癒されたとき、そなたはまたこの世に生まれてくるだろ
う』
男の示唆する未来を見るかのように、娘の眼差しが遠くなる。
『それなら…そのときは、わたしは梅の木になりとうございます。あの滝の傍に
咲く梅の木になって……』
『それは困る』
男はやわらかく微笑みながら、娘の願いをさえぎった。
『そなたに梅の木になられては、われの願いが叶えられぬ』
男は微笑みを消して、真剣な眼差しを娘に向けた。
『千年前、そなたはわれの本性を見たはずだが、怖くはなかったか?』
おごそかに男が問いかけると、幻の娘は泣きながら首を横に振った。
『ならばふたたび人として生まれたそなたを、今度はわれが探しにゆく。これは
約束ではない。そなたとはもう約束はせぬ。われとの約束はそなたを苦しめるば
かりゆえ。これはわれの誓いだ。われはわれに誓う。いつどこに生まれようと、
きっとそなたを探し出してみせる』
幻の娘の唇が戦慄くのに併せ、木乃伊の娘の口許からぽろぽろと欠片がこぼれて
いく。
『われが探す来世のそなたも、同じように想ってくれたなら…そのときは、われ
のややを産んでくれるだろうか?』
それが願いだと言う男の真摯な眼差しの前に、娘の幻はついに号泣した。
両手を広げた男はその袂のうちに、小さな子供のように泣きじゃくる娘をそっと
囲い込んだ。
『いまさら言っても詮なきことだが、あのとき…腕一本と引き換えに、そなたを
さらってしまえばよかったのだな。われが人を幸せにできるなど、ついぞ考えた
こともなかった。人には人の幸せがあって、そなたも人としての幸せを掴めばよ
いのだと思った。……それが間違いだった』
男は半歩退き、また木乃伊の頬に手を添えた。
『次はきっとわれが幸せにしよう。そなたが望んでくれるなら…』
『お待ちしてもいいのですか? 貴方さまを……』
『ああ、必ず迎えにゆく』
男のその言葉こそが娘にとって至福であるかのように、幻の娘は微笑った。

にっこりと幸せそうな笑顔を浮かべたまま、幻の形はおぼろになっていく。
娘の木乃伊の双眸からも光か消え失せ、それはただの命の抜け殻となった。
それと同時に、木乃伊の頭上に小さな光の珠が、ふわりと浮かび上がった。
男はその光の珠を右の掌にすくう。
たちまち木乃伊は着ていた着物ごと、塵か、もしくは乾いた砂のようにさらさら
と崩れていった。
突風が木乃伊だったもののすべてを攫う。
風は男の前で渦を巻き、それから東の彼方へと流れていった。
その行方を最後まで見守った男は、ゆっくりと立ち上がり、光の珠を乗せた手を
高くかかげた。
『われのせいで苦しみ傷付いた魂だ。その懐で癒してやってくれ』
すると、重々しい黒雲から針のように細い金色の光が差し込んできた。
それはわずかのずれもなく、男の掌までまっすぐに伸びる。
天と男の掌が一筋の光で繋がり、小さな光の珠は、天からの光に包まれていた。
『御意』
重厚な声がどこからともなく響く。
娘の魂である光の珠をその内側に取り込んだ金色の光は、黒雲の中へと吸い込ま
れていった。
男は手を掲げたまま動かず、じっと光が消えた場所を見つめ続ける。
それから、千年ぶりに戻った右手をゆっくりと眺めた。
娘が守り通してくれた右手には、娘の想いとぬくもりが残る。
だが、娘はいまこの世のどこにもいない。
『おのが腕に妬心を抱くことになろうとは……』
男の口許に苦い笑みが浮んだ。
『名で縛ることもできなかった。見つけ出すのは難儀なことになりそうだ』
そう言いながらも、男はどこか嬉しそうだ。
娘が名前を憶えていたのなら、娘の名と男の名をその魂に刻むことによって、
二度と離れぬ縁を作ることもできた。
しかしそれが叶わぬ以上、娘は無垢なる魂を持って生まれてくるだろう。
千年前に名を訊ねなかったことを、男は悔いてはいない。
あのとき男の世界には、おのれと娘しかいなかった。
だから名前は必要としなかった。
だが、娘はそう思わないだろう。
『今生で名を呼んでやれなかったのは、われの不明だ。許せよ』
娘の哀しみを増やしたくなくて、言わずにいた謝罪の言葉を、男は紡ぐ。
『われとわが名に懸けて、そなたをきっと探し出す。探し出したそなたがわれを
厭うとも…』
男は天空に向かい、高らかに誓った。




落雷で破壊された正殿を見て、男は唇の端をあげた。
栄華を誇示する外観に反して、内側には荒廃が端々に見てとれる。
ここは時の流れぬ場所だった。
朝廷の名にふさわしい建物は、だがしかし、過去の栄華のままに時を止めている
からこそ虚しい。
ここに執着する者たちは過去にしがみつき、現在から目を逸らし、未来を捜して
はいなかった。
その覇気の無さこそが荒廃を生んでいた。
時代に流れされていくことを望まない者たち。
男の姿を遠巻きに見ていたその者たちのなかから、ひとりの若者が庭へと降り立
った。
「そなたは何者じゃ! あの干乾びた女はなんじゃ!」
若者のそれは興奮というより、恐慌に近い。
「あんなものが玉座の下に埋められていたというのかっ!」
傍目には跡形もなく消えた木乃伊は、まるでこの黄金の双眸を持つ男が消したか
のようにも見えていた。
怖気が若者に取り付いていた。
「もしや…呪うていたのか…? 床下になんぞ埋めるは呪うためと聞いたことが
ある。そのほうの腕とあの女で、呪うておったのだろう!」
男は眸を眇め、若者と正面から向き合うように身体の向きを変えた。
「ひ…」
ただそれだけで若者は肩を跳ね上げ、その場に尻餅をついてしまった。
「そ・そうであろう。そのせいであの野蛮な武士どもに天下を盗られたのじゃ!
あのような者どもに…まるで飼い殺しじゃっ! みなそなたらの呪いかっ!」
激昂し叫ぶ若者に、周囲の者から「主上」と声が掛かる。
男は若者を見て、はっきりと嘲笑した。
「なにを嗤う!」
そう叫んで身を起こした若者を、侮蔑を含んだ眼差しで男は見下した。
『そなたの先祖がわれの腕に願ったことは、その血が続くことのみ。恨み言は血
さえ続けば栄耀栄華も変わりなく続くと思った先祖に言うのだな』
男の身体から、金色の光が立ち昇っていく。
『奪われたというものを取り返す気概すらなく、ただそうやって不平不満を喚き
散らす。そのうえ不遇の理由を他者に求めるか』
若者もその周りを取り囲む者たちも、言い返すことはできなかった。
言葉の真よりも、男の圧倒的なその存在感が反論を許さなかった。
吐き捨てるように言った男の姿がふいに掻き消える。と同時にその場にいた者ひ
とり残らずが、悲鳴をあげ眸を覆った。
いまは雲に隠れている日輪が地上に降りてきたように、まぶしく輝く金色の光は
人々の視界を覆い尽くしてしまった。
光の不思議な力に圧され、あるいは眸を守るためにみな倒れ伏す。
眸を焼かれた痛みに涙を浮かべながら、ようよう目蓋を開けたとき。
人々は見た。
おどろおどろしい黒雲の下、空中には龍がいた。
全身を覆うのは、金の混じった碧のうろこ。
たてがみは鍛えられた鋼の色。
炯々と輝く黄金の瞳は、恐ろしいまでの迫力で人々を睥睨していた。
『われは呪わぬ』
人々の頭蓋に響く声は間違いなく、それまで聞いていた男のものと同じだった。
顔と前足は空中にぴたりと留まっているが、そこから下は風に乗るように波打ち、
それがいまにも襲い掛かってきそうな感覚を人々に与える。
彼らが茫然と眺めていた数瞬の静けさ。
だが、そのあとはぶざまな悲鳴が響き渡った。
逃げ出せる者は良いほうで、腰を抜かし柱にしがみ付くか、尻餅をついたまま
後ろにいざるのがせいぜいだ。
若者は後者だった。
『呪わぬが…しかし…』
龍が若者の顔を覗き込むように、鼻先を近づけた。
人の姿であったときの比ではない威力に溢れた黄金の双眸で見据えられた若者は
首を激しく振りながら、ついには泣き出してしまった。
高貴な身の上が涙と洟で顔を汚し、拭うこともできないでいる。
その脅えきったようすに溜飲を下げたか、龍はすっと顔を引いた。
『われを討つつもりなら、相応の覚悟をしてくるがよい』
龍はそう言い残すと、黒雲の中へと昇っていった。
龍の姿が完全に雲の中に消えると、今度は黒雲が東のほうへと引いていく。
そうして龍は棲み処へと、帰っていったのだった。
あとには早春のうららかな青空が広がっている。
誰もが夢を見ていたかのような顔をして、空を見上げるばかりだった。


龍の棲み処と思しき山が探し出された。
鬼の山という言い伝えはとうに途切れていたが、古びた社が見つかった。
連綿とその社を守ってきた一族のはじまりは、龍に娘を捧げた男だという。
社はたいそう立派なものに造りかえられ、かつて鬼と言われた男は龍神と呼ばれ
るようになった。
龍神が花嫁を迎えたかどうかは、誰も知らない。
ただ、都に龍が現れた話しが昔語りになった頃、早春の東風が強く吹く晩に、そ
の風に乗ってどこからともなく赤子の泣き声が聞こえたという。




             終

*** ずっと以前に描いたイラストですが、このイメージから敬さまにお話を書いていただきました〜♪

   しかもこんなにステキな…。嬉しいです!!さらにこのお話から絵が生まれそうなほど。。。

   まあそれはさておきましても、まずはお話をお楽しみくださいませ〜

   敬さま、ほんとうにありがとうございましたー!! ***                    back

20050602up