男はすべてを失って、其処にいた。 其処は、暗闇が支配するのみ。 天もなく地もなく、光もなく影もない、ただ暗闇だけの世界だった。 限りなく死に近く、しかしそうではない世界。 だがそれも、男にはもうどうでも良いことだった。
すべてを失って、男は疲れ果てていた。 身体に負った無数の傷が、いまも血を流し続けている。 在りし日には、誇らしげに羽ばたいた黒い翼は、 いまは無残に折れ曲がり、二度と動くことはないと思えた。 それでも男は、もう何も感じなかった。
存在そのものを懸けた闘いに、男は敗れた。 力強く羽ばたいた、翼に象徴された力も地位も、 何より、おのれがおのれ自身として在る、誇りすらも失った。 傷付いた身体は苦痛を忘れ、砕かれた心は嘆くことさえ思い出さない。 ただ、まもなく訪れるであろう死を、待ち続けるだけのものと成り果てていた。
男にとって、死は救いであった。
何日経ったのか、それとも幾月かが経ったのか。 すでに無くなった時間の観念の中で、男は項垂れていた頭をようやく上げた。 (……ここは何処だ?) このとき、初めておのれが置かれた状況に対して興味を持った。 しかし、天を仰いでも、地に眸を向けても、何も見えない。 それどころか、目蓋を開けているのか、閉じているのかもわからない暗闇だけがあった。 そこにあるはずの、おのれの腕さえ見えない闇。 男の頬に自嘲が泛ぶ。 (我の終末には、相応しい…か) おのれを嘲笑うことしか、いまの男に出来ることはなかった。
男の運命を変えたのは、彼の者。 出会えば殺し合う宿命を背負った者同士が、寄り添った奇跡。 言葉は通じず、ただ互いの眼差しだけで伝え合った真実。 白い翼の手触りが、あんなにも心地好いものだと初めて知った。 それまでは血塗れた白い翼のみを欲したというのに。 白い翼の幾枚かの羽は銀色に輝いていた。 そして、陽を弾く金の髪の柔らかさ。 白く細い指先は頼りなく。 瞳は金と銀とで彩られていた。 囀る小鳥のような声は、言葉は通じぬとも心地好かった。 そうして、腕の中にすっぽりと収まってしまう細い体躯に、初めての感情が生まれた。 その感情に狼狽する男を、彼の者は微笑みとともに抱き締めて。 男は、すべてが赦される気がした。 彼の者が同胞の手に堕ちたのは、裏切りから。 男の力を妬む者の仕業だった。 目蓋に焼きついた光景は、高々と掲げられた白い翼。 紅く染まったその翼を見たのが、最後の記憶だった。 思い出したそれに、いまもなお血が滾る。 喉が何かで塞がれているようだった。 あの瞬間に上げるはずだった悲鳴が、喉を引き裂いて迸った。
新たな絶望が全身を満たす。 もはや失うものはないはずの身に、なおも襲い掛かってくるその虚無。 ──何故、我は生きているっ!── 男は叫んだ。 守りきれなかった現実。 おのれの存在が赦せなかった。 存在する価値などない、と思えた。 おのが力に驕り、軽んじていた者どもに引き千切られたのは、白い翼だけでなく。 ──誰ぞ、我を殺せっ!── 男は叫んだ。 声を限りに叫んだその言葉は、闇の中に吸い込まれていった。
『──会いたいか?』 どこからともなく、その声は聞こえた。 『彼の者に会いたいか?』 殷々たる声は、無視できぬ威圧感を以って男に再び訊ねる。 馬鹿なことを訊くものだ、と男は思った。 翼をもぎ取られた者が生きているはずなどない。 それはすなわち、死を意味するのだから。 ──馬鹿なことを……。 生きているとでも言うつもりか── 嘲笑とともに吐き出せば、闇が少しひんやりとしたものになった。 『生きておる。 魂は……』 ──なんだ? それは?── 『彼の者の翼を引き千切ったのは他でもない、彼の者自身』 ──たわけたことを抜かすなっ!!── 闇が震えるほどの恫喝だった。 おのが世界にいたのなら、ほとんどの者が平伏すほどの。 だが、声の主が影響を受けた様子はない。 『そなたの見た事実が、真実とは限らぬ』 真の闇の中、声の主は男など一口で飲み込んでしまいそうなほど大きく感じた。 だが、次の瞬間には男の肩に乗って囁いているだけではないかとも思えた。 わかるのは、男の力など遠く及ばぬほど強大な存在ということだけだった。
処女雪のごとく柔らかな、白い翼を持つ者は、 いま、まさに翼をもぎ取られようとする瞬間にも、男に会いたいと願っていた。 翼を鷲掴みにされ、引き千切られようとする激痛の最中でも、 生を終える悲しみより、男に会えなくなる哀しみの方が強かった。 『もしもおのが手で翼を捨てることができるなら、いま一度会えるやも知れぬ』 どこからとも、誰がとも、わからぬその言葉が聞こえた刹那。 白き翼を持つ者は、晴れやかに笑った。 最後の力を振り絞り、翼を大きく羽ばたかせて他の者の手を振り切ると、 おのが手を掛け、力の限りに引き千切った。 黒い翼の者どもが呆然と見遣るその中で、もう一度同じ事を繰り返し。 恍惚とした笑みを浮かべ、高々と掲げた翼は誰に見せるためのものか。 翼から流れる血潮が、最後の一滴を数えた時。 こと切れても、その貌から笑みが消えることはなかった。
男は音が鳴るほど奥歯を噛み締めた。 ──そんな不確かな言葉を信じて。 何故、そこまでできる。 何故、そこまでするのだ。 おまえは……っ!── 口の中に血の味が満ち、握り締めた拳の中には滑ついた感触が広がった。 『彼の者はこれより先、未来永劫、人として輪廻を繰り返す』 男は憎悪の眼差しを虚空に向けた。 『同じ道を選ぶもよし。 このまま無に帰すもよし。 そなたの望むままにするがよい』 ──おせっかいなことだ── 『我が名は<希望>という』 ──では、さんざん世話になったか? 我はずいぶん望みを叶えたが…── 男がそう言ったとき、まるで闇が笑ったかのように震えた。 『それは我が名ではない。 それは<願望>あるいは<欲望>という。 我が名は絶望の果てに見えるもの。 絶望の谷底から見上げる星のようなもの。 失ってはならぬものを失おうとしてる時、あるいは失った時、語り掛けるのみ』 ──我が知る限り、もっとも残酷なものだな── ふたたび、闇が震えた。 『彼の者を、そなたはなんと呼んでいた?』 突然何を訊くのかと、男は訝ったが答えぬ理由にはならず。 ──<朝陽を弾く雪の翼>と呼んでいた── 『あちらでは<剣を隠した雪の翼>と呼ばれ、すべての不吉は彼の者のせいにされた。 そなたと出逢ったのは、あちらを追放されたからだ』
真実が暴かれた時、嘗てないほどの激しい怒りが男の胸に渦巻き、 彼の者の儚い笑みが脳裡に浮かんだ。 華奢な身体を震わせて、怯えながらも男の前から逃げず。 すべてを赦す眸だと思ったそれが、死を覚悟した者の眸だったとは。 おのればかりが赦されて。 何も知らずに注いだ情愛は、彼の者にとってどんな意味を持つものだったのか。 そんなおのれに例え翼の民に戻らず、人としてであっても、 彼の者の傍らに立つ資格があるのか。 そうしてまた、運良く出会えたとしても、ふたたび別れることになるだろう。 人の生は短い。 出会えた数だけ別れが待つ。 未来永劫、出会い続けると同時に失い続ける宿命。 ──やはり<希望>とは残酷なものだな。 この虚無を永遠に味わえというのか── 『ならばこのまま無に帰するがいい。 無に帰し、また翼の民として存在すればよい』 ──我がそれを選んだとき、彼の者はどうなる?── 『人として、何かが欠けた者になるだろう。 何を得ても満たされぬ者になるだろう。 何が足りないのかは自身でも知らぬまま、生き続けるだろう』
闇の中に静寂が戻る。 男は黙し、瞑目したまま微動だにしない。 <希望>もまた、答えを急かすようなことはしなかった。 男は心を秤に掛けていた。 彼の者を選べば、またおのが為に彼の者が疵付き、 おのれもまた、失う苦しみを味わうかもしれない。 このまま無に帰せば、何れふたたび翼の民となり、闘いに明け暮れ、 血に塗れた悦びの日々が続くだけだ。 そう、彼の者に出会う以前のような。 後者を選ぶことは、とても楽なことだった。 そこに彼の者が居ない。 ただ、それだけのことだ。 男の心は決まった。
男は闇の中、見えぬ<希望>に向かい、静かに言った。 ──同じ事をすればよいのか?── 彼の者のいない日々など、無意味以外の何ものでもないと思えた。 力を誇示した血塗れの悦びより、彼の者におのが手で満ち足りた笑みを齎したい。 それは翼の民で在ることより、決して容易くはないだろう。 だが、それもまた良し。 いま一度と、望んでくれた彼の者の為だけでなく。 『そうだ。 <星を抱く夜の翼>よ。 人に翼は要らぬ』 ──なるほど、だからあれは笑っていったのやも知れぬな── 彼の者がそうしたように、男もまた最後の力でばさりと翼を一振りした。 闇に溶け込む黒い翼には、幾枚か、金色を羽を含んでいた。 それを左右それぞれ肩越しに鷲掴み、一息に引き千切った。
──いま、ゆく。 我が………──
そうして男の体躯は、静かに闇に融けていった。
story by kiri-sama
*** 前々回いただいた(ぶんどった?)詩の続編にあたる作品です
終局、そして再生へ…彼等の未来に希望がありますように
kiriさま、優しいお話をありがとうございました♪ ***
20030702up